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あくまで言葉遣いの問題ですが

健康に関心のある方もない方も、こんばんは。早く一人の人間であると社会的に診断を受けたいですね。 珍しく2日連続で。今週は帰りが遅くなるのが予めわかっているので継続はできないだろうけど、書ける範囲で頑張ってみようと思います。 紆余曲折あって現在医療機関で働いているわけですが、健康診断に来る方々を見るたびに健康への関心度の高さを実感します。特に去年は有名人が乳がんを発症したというニュースが流れたこともあってか、女性の乳がんへの不安は高まっているように見えます。 一方で会社から人間ドックをいついつまでに受けろと言われているからという理由で毎年ダラダラ受け続けてる、毎年定期的に食事や運動の指導を受けているのにまったくメタボが治ってない、というような方も散見されます。医師の方も「やる気なくなるよねw」などと愚痴をこぼしていたりします。 僕の周りだと、長生きしたくないというような声も聞こえます。僕自身長生きしたいかと聞かれると、特に興味はありません。40歳で亡くなろうが90歳まで生きようが、それが自分の人生なんだと受け入れる準備があるというか。僕は以前鬱状態に陥って、生きていく希望もなければ今後生き抜いていく自信も失ったことがありました。あの時、僕の人生は一度終わったんです。今は第二章というか、続編というか、むしろあとがきのようなもんです。附録なんです。本来既に終わってるはずの人生だから、あと何年続こうが別にどうでもいいって気持ちなんです。長生きなんて、できたらラッキーてなもんです。 まぁでもできたらラッキーということは、積極的に早死にしたいわけではないですね。それと長生きしたいとちょっと違いますが、80歳という人生のステージを経験してみたいという好奇心はあります。そういう意味ではある程度は長生きしたいと思っているのかもしれません。 時々、健康ってなんだろうって思うことがあります。病気ってなんだろうと思います。 健康診断では、数値や画像等が「基準」の中に収まっているかどうかで健康であるかが判断されます。基準をやや外れていれば経過観察、大きく外れれば要精査・要治療と診断されるわけです。基準内であれば正常、基準外であれば異常と呼ばれます。そして受診者を正常な状態である「基準」の中に誘導することが、医療機関の務めというわけです。 徐々にですが健康というのは「基準...

書けないくせに書きたい気持ちを抑えられず

学生の頃、国語が好きだったあなたも嫌いだったあなたも、こんばんは。 最近、いやもう以前からだろうか?全然ブログ書けないんですよ。って読めばわかるか。 でもブログ以外に大学ノートに日記もつけてるんですけどね。そっちもほとんど書いてない。ちなみに家計簿もやめちゃった。唯一続いているのは手帳くらいなもんですかね。 日々記録をつけずに漫然と生きていると、振り返った時にオレって何してたんだろうってわからなくなっちゃうんですよね。僕の場合、情熱を持って何かを目指して夢中で突き進んでたがゆえに記録がないってわけでもないし。ただ面倒なだけだから。これはとても虚しい。 ただ自分でも不思議なことに、書きたいって気持ちはずっとあるんですよ。文章を書きたい。でも何を書いたらいい?何を書けばウケる?何を書けば面白いと言ってもらえる?何を書けば役に立つ? 書きたいって気持ちの隣に「読んでもらいたい」があるかのような書き方になってしまいましたが、根底にあるのは「書きたい」なんですよ。「書きたい」>>「読んでほしい」>0って図式ですね。 それでも書くことができないのは中身がないからなんですね。人として僕は中身が薄い、あるいはないんです。だからつまらまい。 心優しい人は「そんな自虐しなくても」って思うかもしれませんが、これが事実だから仕方がない。 とにもかくにも、昔から僕はインプットが少ない人間でした。インプットの苦手を、この歳になるまで引き摺ってしまいました。早いうちに克服しないと、もう修正がきかないかもしれません。そのくらいのつもりじゃないとダメですね。一生虚しいままです。 読んでほしいって気持ちは先述した通りゼロではありません。でも僕がブログを書くのは読んでもらうため、具体的な他者にオレの話を聞いてくれって願っているからではないように自分では思います。一体僕は誰に向けてわざわざ丁寧語まで使ってブログを書いてるんでしょうか。 これは僕自身でもよくわかってないのですが、実を言うと僕は自分の空想の中に出てくる「隣の人」に話しかけてるような感覚なんです。大学ノートに書いたことは「隣の人」には見ることは出来ません。しかしネットにアップされたブログ記事は「隣の人」も読むことができるんです。おかしな設定です。 自分で説明してても気持ちが悪いし、頭おかしい...