書けないくせに書きたい気持ちを抑えられず
学生の頃、国語が好きだったあなたも嫌いだったあなたも、こんばんは。
最近、いやもう以前からだろうか?全然ブログ書けないんですよ。って読めばわかるか。
でもブログ以外に大学ノートに日記もつけてるんですけどね。そっちもほとんど書いてない。ちなみに家計簿もやめちゃった。唯一続いているのは手帳くらいなもんですかね。
最近、いやもう以前からだろうか?全然ブログ書けないんですよ。って読めばわかるか。
でもブログ以外に大学ノートに日記もつけてるんですけどね。そっちもほとんど書いてない。ちなみに家計簿もやめちゃった。唯一続いているのは手帳くらいなもんですかね。
日々記録をつけずに漫然と生きていると、振り返った時にオレって何してたんだろうってわからなくなっちゃうんですよね。僕の場合、情熱を持って何かを目指して夢中で突き進んでたがゆえに記録がないってわけでもないし。ただ面倒なだけだから。これはとても虚しい。
ただ自分でも不思議なことに、書きたいって気持ちはずっとあるんですよ。文章を書きたい。でも何を書いたらいい?何を書けばウケる?何を書けば面白いと言ってもらえる?何を書けば役に立つ?
書きたいって気持ちの隣に「読んでもらいたい」があるかのような書き方になってしまいましたが、根底にあるのは「書きたい」なんですよ。「書きたい」>>「読んでほしい」>0って図式ですね。
それでも書くことができないのは中身がないからなんですね。人として僕は中身が薄い、あるいはないんです。だからつまらまい。
心優しい人は「そんな自虐しなくても」って思うかもしれませんが、これが事実だから仕方がない。
とにもかくにも、昔から僕はインプットが少ない人間でした。インプットの苦手を、この歳になるまで引き摺ってしまいました。早いうちに克服しないと、もう修正がきかないかもしれません。そのくらいのつもりじゃないとダメですね。一生虚しいままです。
読んでほしいって気持ちは先述した通りゼロではありません。でも僕がブログを書くのは読んでもらうため、具体的な他者にオレの話を聞いてくれって願っているからではないように自分では思います。一体僕は誰に向けてわざわざ丁寧語まで使ってブログを書いてるんでしょうか。
これは僕自身でもよくわかってないのですが、実を言うと僕は自分の空想の中に出てくる「隣の人」に話しかけてるような感覚なんです。大学ノートに書いたことは「隣の人」には見ることは出来ません。しかしネットにアップされたブログ記事は「隣の人」も読むことができるんです。おかしな設定です。
自分で説明してても気持ちが悪いし、頭おかしいんじゃないかとさえ思いますが、正直に自分の感覚を話すとそういうことになるんです。仕方ないですね。
少し話がそれましたが、僕の課題は「テーマ」なんです。話題さえあれば、そして体力さえ残っていればしょっちゅう文を書くんじゃないかと思います。もともと好きですから。ただ書くために情報収集するっていうのも虚しく薄っぺらいですし、結局情報の横流しに終わるんですよね。それはつまらない。自分が面白いと思う話をしてこそ文章に熱が帯びるんです。ここに異論を唱える人はまずいないと思います。
そもそも何故僕のインプットが少ないかというと、興味関心の幅がとても狭いから、また狭いがゆえに情報の集め方もよく知らない。このあたりに原因があるのだと思います。だから根本的に自分が変わらないと「書けない!」という状況は変化しないんです。
そうは言っても今から何かに興味を持てというのも無茶な話です。僕にとって関心や興味というのは無理くりに捻り出すものではなく、静かに見守ってさえいれば湧き出てくるものなんです。
振り返ると、自分は全く何も興味がないわけじゃないと思います。ただ「こういう社会問題に興味あるオレ」、「理想」像とかけ離れてしまうから。今持っている興味は自分が持っていたい興味じゃないからと知らず知らず自己否定してしまい、自分が納得する興味を持っていないと「書きたいことがない」ってことになってしまうんです。
前々から等身大で、自分の気持ちに素直になろうと努めてきましたが、今に至るまで変なプライドが邪魔をしてきます。格好もつけたいけど、格好つけずに。格好つけずに格好良く。自分の思うままに。華麗奔放。
今回は書けないことをテーマに書いてみました。下書きもせず、思うままに一気に。すごくすっきりしました。やっぱり書くのは最高に楽しいです。
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