読書・ヴァン・パリース編1
読書好きな方も読書嫌いな方もこんばんは。図書館とかブックオフとか行って本棚眺めてると「あ、これ面白そうかも」という本に必ず一冊は会える現象に名前がほしいところです。
ちょっとずつ自由の話を拡大、深化させていきたいなと思っています。
これはどんな物事を考える際でもそうですが、自分一人で考えられることなんてたかが知れています。議論を先に進める前に本を読んでおこうと思います。
今日参考するのはこちら。
ベーシック・インカムの哲学―すべての人にリアルな自由を
フィリップ・ヴァン パリース
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勁草書房から出ているベーシック・インカムの本です。
今日はベーシック・インカムの話はしませんが、自由に関する記述を少し引用出来たらと思ってます。
●自由の定義
なぜ正しくないのだろうか。
その批判の根拠となっているのがバーリンの「満足した奴隷」だ。
もし自由を「何かを妨害なく実行できること」と定義してしまうと、抑圧されている奴隷であっても達成可能な欲求を実現するだけで自由であることになってしまう、という指摘だ。
つまり実現可能な事柄の集合が小さいのに、その人の選好を操作することで、集合の拡張なく人の自由を増大させることができるというのだ。
従ってこの自由の定義が議論を進めていく上で不適切となるのだとヴァン・パリースは言う。
確かに、だいたいの人は自分に見合わない欲望は「どうせ実現できないから」と諦めてしまっている。
たとえば僕はお金さえあれば引越しをしたい、高い酒を買いたい、もっと気軽に旅行行きたい、車とバイク買いたい、などと思うが現実にはどれも実現できておらず、それでいて日々の生活には妨害がほとんどなく一定の満足感がある。
もちろん現実に生活を営んでいくにあたってこうした欲求のすり合わせというか、我慢は必要になるだろう。
どこまでの欲求を認めるかというのは答えのない問いになってしまう(たとえば僕が金さえあれば自家用飛行機がほしいなどと言い、所得が低く僕の自由が侵害されていると訴えても誰も耳を貸さない)が、人々は自分の持つ集合の大きさに慣れてしまい集合の外への関心を放棄してしまいがちであることは確かだろう。
もっと端的にいうと、人は与えられた環境に適合できてしまうということだ。
そこで問題を解く必要が出てくるのだが、この本では3つの案が紹介されている。
「したいと欲するであろうこと」は選好の操作によって望まなくなった欲求を含むということだろう。
狙いとしては「まず操作される前に持っていたが操作されたがために欲しなくなった事柄の実現の機会がなければ、その人は自由ではない」と主張するとともに、
操作後に欲しなくなった事柄を実現する自由をも保障するべきだという話に持っていきたいのだと思う。
以上の議論は400ページ以上ある本のほんの2,3ページを参照しただけなので、ヴァン・パリースの自由論シリーズはやろうと思えばいくらでもできそうです。
最後に余談ではありますが、みなさん「1000万円好き勝手使えるとしたら何がしたいですか?」という質問を自分にぶつけてみると、自分の本当にやりたいことが見えてきたりします。
これ、自分が何をやりたいかわからないという悩みを抱える人に、特におすすめです。
1000万円じゃ足りない!という人は金額を増やしてもいいかもしれません。
子どもの頃はこういう夢をよく思い描いたものですが、大人になると現実と向き合うことで精一杯で夢なんてなかなか見ません。
ましてや時代が時代。夢を見づらい、生きづらい世の中。
僕は「お金あったら何をする?」が居酒屋にいった時の定番の話題に(仕事の愚痴なんかじゃなくて)なってくれたらいいのになと思っています。
ちょっとずつ自由の話を拡大、深化させていきたいなと思っています。
これはどんな物事を考える際でもそうですが、自分一人で考えられることなんてたかが知れています。議論を先に進める前に本を読んでおこうと思います。
今日参考するのはこちら。
ベーシック・インカムの哲学―すべての人にリアルな自由を
フィリップ・ヴァン パリース
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勁草書房から出ているベーシック・インカムの本です。
今日はベーシック・インカムの話はしませんが、自由に関する記述を少し引用出来たらと思ってます。
●自由の定義
…「私が私のしたい事を行えるとき,私の自由が存在する」のである.しかし,これは正しくない.(p.29)
なぜ正しくないのだろうか。
その批判の根拠となっているのがバーリンの「満足した奴隷」だ。
もし自由を「何かを妨害なく実行できること」と定義してしまうと、抑圧されている奴隷であっても達成可能な欲求を実現するだけで自由であることになってしまう、という指摘だ。
つまり実現可能な事柄の集合が小さいのに、その人の選好を操作することで、集合の拡張なく人の自由を増大させることができるというのだ。
従ってこの自由の定義が議論を進めていく上で不適切となるのだとヴァン・パリースは言う。
確かに、だいたいの人は自分に見合わない欲望は「どうせ実現できないから」と諦めてしまっている。
たとえば僕はお金さえあれば引越しをしたい、高い酒を買いたい、もっと気軽に旅行行きたい、車とバイク買いたい、などと思うが現実にはどれも実現できておらず、それでいて日々の生活には妨害がほとんどなく一定の満足感がある。
もちろん現実に生活を営んでいくにあたってこうした欲求のすり合わせというか、我慢は必要になるだろう。
どこまでの欲求を認めるかというのは答えのない問いになってしまう(たとえば僕が金さえあれば自家用飛行機がほしいなどと言い、所得が低く僕の自由が侵害されていると訴えても誰も耳を貸さない)が、人々は自分の持つ集合の大きさに慣れてしまい集合の外への関心を放棄してしまいがちであることは確かだろう。
もっと端的にいうと、人は与えられた環境に適合できてしまうということだ。
そこで問題を解く必要が出てくるのだが、この本では3つの案が紹介されている。
- その人のしたい事柄が公共の利益に資する範囲で自由を保障する
- 押しつけられた欲求と本人によって選択された欲求とを区別する
- 自由を、その人が「したいと欲するであろうこと」を妨害せずに行えることと定義する
ヴァン・パリースは1と2を退け、3でなら欲求を操作された奴隷の方が自由であるという結論を回避できるとしている。(もっともある個人がしたいと欲するであろうことの定義については、この後の記述の中で精緻化していくと付言している)
狙いとしては「まず操作される前に持っていたが操作されたがために欲しなくなった事柄の実現の機会がなければ、その人は自由ではない」と主張するとともに、
操作後に欲しなくなった事柄を実現する自由をも保障するべきだという話に持っていきたいのだと思う。
以上の議論は400ページ以上ある本のほんの2,3ページを参照しただけなので、ヴァン・パリースの自由論シリーズはやろうと思えばいくらでもできそうです。
最後に余談ではありますが、みなさん「1000万円好き勝手使えるとしたら何がしたいですか?」という質問を自分にぶつけてみると、自分の本当にやりたいことが見えてきたりします。
これ、自分が何をやりたいかわからないという悩みを抱える人に、特におすすめです。
1000万円じゃ足りない!という人は金額を増やしてもいいかもしれません。
子どもの頃はこういう夢をよく思い描いたものですが、大人になると現実と向き合うことで精一杯で夢なんてなかなか見ません。
ましてや時代が時代。夢を見づらい、生きづらい世の中。
僕は「お金あったら何をする?」が居酒屋にいった時の定番の話題に(仕事の愚痴なんかじゃなくて)なってくれたらいいのになと思っています。
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