「告白する」と「告る」を比較してみた
先日「告る」という言葉って、いかにも現代的な言葉なんじゃないかなって思ったことがありました。
もともとは「告白する」、好きな相手に交際を申し入れる、好きであるという気持ちを伝えるという意味ですよね。
「告白する」が「告る」に変化する、つまり「白」が抜け落ちたわけです。
「告げる」という字については伝える、話すという意味合いなのでいいのですが、「白」ってどういう意味なんでしょう?
調べてみると、実は「白」も言う、告げるという意味のようなんです。
科白(セリフ)、自白、白状、なんかが当てはまるようです。
じゃぁ告白というのは同じ意味の漢字を二文字並べた語なのか。
そう思ってもう少し探ると、「白」という字はただ単に言う、告げるという行為を指すのではなく「これまで隠していたことを明らかにする」というニュアンスが含まれているようなのです。
白というのは明るい色です。
ここから、明かす・明らかにする・明るみにする、という意味合いが生まれているのではないかと思われます。
告白というのは「実は以前から好きだったんだという気持ちを打ち明け、相手に伝える」行為のことなのだと理解できます。
ではこの「白」が抜け落ちてしまうというのは、一体どういうことなんだろう?
単に「告る」と言った場合と「告白する」と言った場合の違いとは?
「告る」といった場合、「白」の字に込められていた「打ち明ける」というニュアンスが失われてしまい、重点が「相手に伝える」ことに置かれているように僕は思うのです。
かなり乱暴な言い方になりますが、告る側がもともとずっと好きだったのか、それともシックスセンスがピンときて「この人だ!」と思って告るのか、はたまた夏休みだから交際相手が欲しくて誰でもいいからと告るかは、あんまり関係がない。
そこに至る経緯はともかく、たいせつなのは伝えること。
どんなに強く想いを持っていようと、あるいは軽い気持ちであろうと、伝えなければ何も始まりません。
行動が第一。
「告る」という言葉、「白」の抜け落ちから僕はそういった印象を受けます。
実際、交際が成立するかどうかは「白=打ち明ける」ことではなくて、相互の気持ちやお互いに好意を持っているかどうかが重要なように思います。
告る前から結論は先に存在しているわけです。
それが「脈あり」「脈なし」の言葉に表れているのだと僕は思っています。
そういう意味では「告る」というのはお互いの気持ちの確認、交際相手として正式に承認するきっかけのようなものでしょう。
だから「白=打ち明ける」ことの意味合いがどんどん薄れ、伝えることの意味合いだけが増してきます。
「告り」がなければ正式な確認、承認がなくかえってお互いに不安になるため、伝えることの重要性も同時に増します。
「白」という字の抜け落ちにはそんな背景があるのかなと思いました。
歴史によれば、結婚相手も自由に選べない時代もあったようです。
それと比較して僕らはなんと自由で競争的な社会を生きていることでしょう。
伝えることこそが重要な、コミュニケーション力の弱肉強食社会。
能力の有無が「リア充」と「非リア」とに分断する社会。
モテなくても、交際相手がいなくても、おかしいことじゃない。
自己肯定感が低下することのないような多様性を確保できる社会の到来を待っています。
もともとは「告白する」、好きな相手に交際を申し入れる、好きであるという気持ちを伝えるという意味ですよね。
「告白する」が「告る」に変化する、つまり「白」が抜け落ちたわけです。
「告げる」という字については伝える、話すという意味合いなのでいいのですが、「白」ってどういう意味なんでしょう?
調べてみると、実は「白」も言う、告げるという意味のようなんです。
科白(セリフ)、自白、白状、なんかが当てはまるようです。
じゃぁ告白というのは同じ意味の漢字を二文字並べた語なのか。
そう思ってもう少し探ると、「白」という字はただ単に言う、告げるという行為を指すのではなく「これまで隠していたことを明らかにする」というニュアンスが含まれているようなのです。
白というのは明るい色です。
ここから、明かす・明らかにする・明るみにする、という意味合いが生まれているのではないかと思われます。
告白というのは「実は以前から好きだったんだという気持ちを打ち明け、相手に伝える」行為のことなのだと理解できます。
ではこの「白」が抜け落ちてしまうというのは、一体どういうことなんだろう?
単に「告る」と言った場合と「告白する」と言った場合の違いとは?
「告る」といった場合、「白」の字に込められていた「打ち明ける」というニュアンスが失われてしまい、重点が「相手に伝える」ことに置かれているように僕は思うのです。
かなり乱暴な言い方になりますが、告る側がもともとずっと好きだったのか、それともシックスセンスがピンときて「この人だ!」と思って告るのか、はたまた夏休みだから交際相手が欲しくて誰でもいいからと告るかは、あんまり関係がない。
そこに至る経緯はともかく、たいせつなのは伝えること。
どんなに強く想いを持っていようと、あるいは軽い気持ちであろうと、伝えなければ何も始まりません。
行動が第一。
「告る」という言葉、「白」の抜け落ちから僕はそういった印象を受けます。
実際、交際が成立するかどうかは「白=打ち明ける」ことではなくて、相互の気持ちやお互いに好意を持っているかどうかが重要なように思います。
告る前から結論は先に存在しているわけです。
それが「脈あり」「脈なし」の言葉に表れているのだと僕は思っています。
そういう意味では「告る」というのはお互いの気持ちの確認、交際相手として正式に承認するきっかけのようなものでしょう。
だから「白=打ち明ける」ことの意味合いがどんどん薄れ、伝えることの意味合いだけが増してきます。
「告り」がなければ正式な確認、承認がなくかえってお互いに不安になるため、伝えることの重要性も同時に増します。
「白」という字の抜け落ちにはそんな背景があるのかなと思いました。
歴史によれば、結婚相手も自由に選べない時代もあったようです。
それと比較して僕らはなんと自由で競争的な社会を生きていることでしょう。
伝えることこそが重要な、コミュニケーション力の弱肉強食社会。
能力の有無が「リア充」と「非リア」とに分断する社会。
モテなくても、交際相手がいなくても、おかしいことじゃない。
自己肯定感が低下することのないような多様性を確保できる社会の到来を待っています。
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